塵芥溜のブログ

日頃の備忘録

回想と今後

新天地にて、いつの間にやら約1ヶ月経ち、地方公務員の環境にも慣れ始めました。まだまだ覚えることが多く、順応できるまで時間が掛かりそう..

一応、前職でしてきたことを思い返しつつ、今後の目標について考える。

 

前職について

安易な気持ちで地元で就職したものの、劣悪な職務内容と発注者側のパワハラ(人格否定含む)、安月給というトリプルコンボで滅多打ちに合った。精神と体重をすり減らしながら、埋蔵文化財に関わる半民間の会社で4年勤務した。

4年を浪費したとは思いたくないので、やり遂げたことを回顧することにしたい。

 

・報告書の編集と執筆を主で3度担当し、遅滞なく発注者に納品したこと。

・職場内でコミュニケーションを密にして、良好な人間関係を維持した点。

・小規模ながら展示を2回企画し、駅に併設された場所で出土物の展示ができたこと。

・主の業務だった埋蔵文化財の試掘・立会を安全に留意して、無事故で終えれた点。

・日々、遺跡の評価を最大限できるように、主に中近世の勉強を続けられたこと。

※仕事外

岐阜県下の道の駅を制覇したこと。

・長年悩んでいた猫背が、病院に通いを続けて改善したこと。

 

今後について

前職で出てきた課題を踏まえ、今後の小目標を挙げる。

・挨拶礼儀マナーを大切にして、上席の方、市民、事業者に対し誠実に応対する。

・良好な人間関係を構築するために、日々円滑なコミュニケーションを積み重ねる。

・できる仕事を増やし、信頼、信用を得られるよう地道に業務を正確かつ早くこなす。

・ケアレスが多いので、何事もよく確認して職務を確実に遂行する。

・理不尽なこと、嫌悪感を抱くことに直面しても、アンガーコントロールをする。

※仕事外

・登山とオートキャンプに挑戦する。

・睡眠を十分にとり、土日も6時に起きる。

慌ただしい日常の合間に

ブログの更新そのものを放置しすぎて約1年。反省したい。

不定期でも備忘録としての日頃の行った場所、読んだ本の感想なんかを綴っていきたい。

 

・最近行ってよかったと思った名所旧跡

平泉界隈(中尊寺毛越寺ほか)

夏休み?をつかって、寒くなる前に行ってきました。レンタサイクルで中尊寺はじめ、藤原4代ゆかりの地を回りました。平日に回ってたので、観自在王院跡では町?の発掘調査がされたり、無量光院跡は史跡整備中でした。ともあれ、回り切れなかった場所もあるのでまた訪れたい。

 

・最近読んで面白かった本

佐々木ランディ著『水中考古学 地球最後のフロンティア 海に眠る遺跡が塗り替える世界と日本の歴史』

 

 内陸県在住で、水中遺跡が身近になく、なじみのない主要な水中遺跡が簡潔に紹介されていてわかり易かった。曽根遺跡ぐらいしか知らなくて、視野の狭さを実感。勉強しなきゃと思い、文化庁が出した「水中遺跡ハンドブック」を積み本リストに追加した。

 

 

 

o1,展示見学録/【企画展】文明開化とせとやき―近代前期の瀬戸窯と美濃窯―

展示見学録/【企画展】文明開化とせとやき―近代前期の瀬戸窯と美濃窯―

主催:(公財)瀬戸市文化振興財団、会場:愛知県陶磁美術館本館1Fギャラリー   https://www.pref.aichi.jp/touji/news/20211016setoshi.pdf

 

小生の居ます自治体でも、近代の陶磁器がなんだかんだ出土するので、参考になればと思い会期終了間際に、滑り込んで見学しました。

毎年(公財)瀬戸市文化振興財団の企画展を愛知陶磁でやっているようで、昨年度の企画展『磁器生産の成立と展開―江戸後期の瀬戸窯と美濃窯―』(https://www.pref.aichi.jp/touji/news/20201017setoshi.pdf)の展示物の量に圧倒されましたが、今年の展示も負けず劣らずの物量でした。

※上記のURLリンクは愛知県陶磁美術館のホームページより

 

企画展の大筋は、明治時代の瀬戸美濃の生産遺跡(窯跡)出土の陶磁器と、それらを使用していた消費地遺跡出土の陶磁器などを陳列し、文様の施文方法の変遷や紀年銘(作成年号記載)資料を織り交ぜながら、文明開化最中の瀬戸美濃の位置づけを探る展示内容でした。展示で個人的な目玉展示だと思ったのが2点挙げられる。

 

1つ目に、文様施文の技法である「型紙摺絵」と「銅版転写」の違いを実資料をそれぞれ展示されていた点だ。素人目で違いが分かるような展示解説も添えられていてわかり易かった。

近世前半には主流だった施文技法が、明治に型紙摺絵技法が一時期ながら姿を見せますが普及せず、西洋からの何度も使用できる銅版転写技法が明治時代後半の重要な施文技法だった。

実資料を見ると違いは一目瞭然で、型紙の方は、文様を彫り出した型紙を施釉前に塗る都合で、円や長い直線、交差する線があるとずれたりするので、必然的に点線で文様を表現する箇所を設けている。対して、銅版の方は、防蝕材を塗り文様を彫り出し、酸性薬剤を掛けて、彫った箇所が腐食したところに呉須を塗り、紙をかぶせ文様を写し取る技法だ。そのため型紙のような文様の制約もなく、銅版の耐久性もあったため、大量生産に向いていた。(岡本直久2021)p83-84。銅版の方が複雑な文様にムラが少ないように見受けられ、展示されているものには点線文様はなかった。

 

2つ目に、紀年銘のある陶磁器の展示である。1つ目の型紙と銅版にも関わってくるもので、従来、文献などから近代瀬戸焼の文様施文は明治15年(1882)に型紙摺絵技法が、明治20年(1887)に銅版転写技法がそれぞれ始まったとされていた。

展示されていた紀年銘のある陶磁器にはそれよりも遡る可能性がある資料が抽出されていました。型紙の方は明治15年1月にお寺に奉納した皿で、焼成はそれ以前の可能性があることを指摘されているほか、銅版の方は明治20年の皿があるため、明治22年の2年前には実用化されたと評価された(岡本直久2021)p94。

 

今回の企画展は見応えがある上に、立派な展示図録も準備されている。企画展の企画担当された方は、明治でも出土資料が限られる中で生産遺跡、消費地遺跡のそれぞれで集成し展示した苦労の賜物と思う。次年度の企画展が今からでも楽しみだ。ただ、大正以降の陶磁器を限定して展示するのは出土資料数が極端に少なくなるので、次年度の企画展は近代後期は取り上げないかもしれませんが、個人的には戦中の統制陶器までの流れを展示してもらえると面白いかなと思っている。

 

 

参考・引用文献

浅川範之2007「飯茶碗」の考古学 鈴木公雄ゼミナール編『近世・近現代考古学入門 「新しい時代の考古学」の方法と実践』p52-53 慶應義塾大学出版会

岡本直久2021「文明開化とせとやき―近代前期の瀬戸窯と美濃窯―」『令和3年度 公益財団法人瀬戸市文化振興財団 企画展 文明開化とせとやき―近代前期の瀬戸窯と美濃窯―』p83-84,94 公益財団法人瀬戸市文化振興財団【展示解説書本文】

p2,毎田佳奈子2014「江戸を支えた土ー西久保城山土取場跡ー」

毎田佳奈子2014「江戸を支えた土ー西久保城山土取場跡ー」江戸遺跡研究会編『江戸の開府と土木技術』p151-166 吉川弘文館

 

最近建設残土問題度々取沙汰されている。個人住宅や集合住宅の建築、道路建設などの公共インフラの整備などに建設する土地の切土もしくは盛土して地盤改良をしないことには不動産は建てられない。土と土地開発は切っても切れない関係にある。

小生のここ2、3年ほど近世城下町の調査に関わる機会が多いこともあって、どうしても扇状地内の盛土の実態について関心がいく。少ない絵図を見れば山際に「土取場」と記載がある土地があったりする。調査研究の進む江戸の事例から、土取りについてみることにしたい。

 

論文によれば、江戸は文献史料、複数時期の絵図が豊富にあることもあって、土取りの実態の一端を発掘成果やボーリングデータ、現況地形図と合わせて、地形を生かした土取り規模やその実態について大まかに推定できるとのことだ。土壌採掘場として武蔵野台地上に西久保城山土取場が現在の港区虎ノ門4丁目付近にあったようで、もともと傾斜地だったところを土取場として採用している。この土取場は17世紀前葉には土取作業が行われ、19世紀中頃絵図には土取場ではなく「なだれ」と記載に変わるまで採掘が続いたとされる。

また、土取り後に起きた悪影響として、西久保城山土取場跡比定地周辺の屋敷地の発掘調査で検出されている地下室の構造に着目されている。台地上の遺跡であるのに低地でよく認められる地下室の頑丈な排水施設が存在することから、湧水や雨水の処理と、19世紀中頃に周辺の傾斜地のなだれ(土砂崩れ)があることを挙げている。

 

城下町・都市遺跡においては、大規模な土取場がいくつかなければ土地開発の更新自体難しかったのだろう。現在も近世もさほど土取り事情は変わらないかもしれない。文献史料や絵図に記載と、周辺の調査成果を含めて総合的に土取場比定地の土地利用の変遷や規模、背後にある土取りによる影響にまで言及されており、説得力があった。ただ、発掘調査成果やボーリングデータで得られた柱状図があれば、より旧地形推定図(p161)の根拠の補強がされるのにと思ってしまった。

 

 

 

p1,中園ほか2021「3Dを終始多用した発掘調査―鹿児島県三島村黒島の調査から―」

中園聡・平川ひろみ・太郎良真紀 2021「3Dを終始多用した発掘調査―鹿児島県三島村黒島の調査から―」『日本情報考古学会講演論文集』Vol.24 p30-35 日本情報考古学会

 

「悉皆的3D発掘」の実践例として、国内で先駆けて発掘調査で写真測量を徹底して行い、その有効性を示している。

従来の実測図やトータルステーションを用いた位置情報記録で不十分だった掘った状態を子細に復元できるような記録方法として、近年注目されている写真測量ですが、中園氏らが実施した終始写真測量で記録を残し、手作業の実測をしないことを実践した例は国内では初例だと思われる。

 

発掘現場で、人力掘削の傍らで手測りの実測作業は人員も時間もかかり、多くの平面、断面図などの実測図の縮尺が基本1/1で実測することは稀である。実測図が終われば標高を図面に記録していく作業も時にはある。手作業の実測図を作成する過程でヒューマンエラーや客観性が担保されなかったりと問題が生じる上に、追及すべき発掘状態の再現度を上げてることは調査期間、人員、予算のバランスで、多くの調査機関で記録保存の取捨選択がなされてきている。

大規模現場においては、完掘時の平面図化を写真測量、遺物出土状況はオルソ画像作成して実測図を作成するところは多いだろう。徐々に写真測量を活用が進んでるように感じる。

 

中園氏らが実施した発掘調査成果は報告書になって、詳細なデータが公開されている(中園編2021『三島村黒島大里遺跡 2』)。写真測量で得られた3Dデータを必要に応じ図化、位置の記録、個々の子細な写真記録も復元できるようである。

”現場の情報は調査時にしか得られないという考古学の宿命を覆す(=真の記録保存に近づく)のが3D記録である”(p32)

複数年度にわたり継続し発掘調査しているところで、当初は手作業の実測と併用で、写真測量を行い、調査記録に写真測量が有効な手段であることを確認し、時間、人員は少なく済み効率的に精度の高い記録が取れることが明らかにされた。詳細については報告書と合わせて読むと、写真測量は有効な記録手段であることは頷けるし、希求してやまない完壁にほど近い記録保存だと思われる。

ただ、デメリットになる写真測量用の機材や専用ソフト、3Dデータの解折環境の準備には、一体どれだけの費用がかかるのかが分からない。まだ、各地の埋蔵文化財行政職員にはやや敷居が高いままのような気がする。しかしながら、コロナ禍でオンラインで講習もあったりして、写真測量の普及に尽力されている研究者の方が一定数いらっしゃるので、今後目が離せない分野であることは間違いない。

 

 

 

徒然なるままに書き殴る備忘録を開設

ブログ開設にあたり

下半期も始まり、何か新しいことを始めようと思い立ちブログを開設しました。お外には出ずらいご時世ですし、中で、当分読んだ本とか論文の覚書やら、博物館等の見学記録を気ままに記録することを軸に、ブログを書き散らかしたいと思います。

 

今週のお題「今月の目標」

無理せず、月2、3回のブログ更新を目標にする。

 

※追記(タイトルについて)

本はb、学術論文はp、それ以外はoを頭文字にそれぞれ連番で、書きます。