塵芥溜のブログ

日頃の備忘録

p2,毎田佳奈子2014「江戸を支えた土ー西久保城山土取場跡ー」

毎田佳奈子2014「江戸を支えた土ー西久保城山土取場跡ー」江戸遺跡研究会編『江戸の開府と土木技術』p151-166 吉川弘文館

 

最近建設残土問題度々取沙汰されている。個人住宅や集合住宅の建築、道路建設などの公共インフラの整備などに建設する土地の切土もしくは盛土して地盤改良をしないことには不動産は建てられない。土と土地開発は切っても切れない関係にある。

小生のここ2、3年ほど近世城下町の調査に関わる機会が多いこともあって、どうしても扇状地内の盛土の実態について関心がいく。少ない絵図を見れば山際に「土取場」と記載がある土地があったりする。調査研究の進む江戸の事例から、土取りについてみることにしたい。

 

論文によれば、江戸は文献史料、複数時期の絵図が豊富にあることもあって、土取りの実態の一端を発掘成果やボーリングデータ、現況地形図と合わせて、地形を生かした土取り規模やその実態について大まかに推定できるとのことだ。土壌採掘場として武蔵野台地上に西久保城山土取場が現在の港区虎ノ門4丁目付近にあったようで、もともと傾斜地だったところを土取場として採用している。この土取場は17世紀前葉には土取作業が行われ、19世紀中頃絵図には土取場ではなく「なだれ」と記載に変わるまで採掘が続いたとされる。

また、土取り後に起きた悪影響として、西久保城山土取場跡比定地周辺の屋敷地の発掘調査で検出されている地下室の構造に着目されている。台地上の遺跡であるのに低地でよく認められる地下室の頑丈な排水施設が存在することから、湧水や雨水の処理と、19世紀中頃に周辺の傾斜地のなだれ(土砂崩れ)があることを挙げている。

 

城下町・都市遺跡においては、大規模な土取場がいくつかなければ土地開発の更新自体難しかったのだろう。現在も近世もさほど土取り事情は変わらないかもしれない。文献史料や絵図に記載と、周辺の調査成果を含めて総合的に土取場比定地の土地利用の変遷や規模、背後にある土取りによる影響にまで言及されており、説得力があった。ただ、発掘調査成果やボーリングデータで得られた柱状図があれば、より旧地形推定図(p161)の根拠の補強がされるのにと思ってしまった。